おりじゅなる[学校で怪談]

 走っていた。ただ我武者羅に、夜の校舎を走っていた。人気のない廊下を全力で突っ切り、月明かりに照らされ二割増しで薄っぺらくなった階段を駆け下りて、四階から三階へ。後ろを振り返る余裕はない。余裕があっても振り返るはずがない。背後から迫り来る得体の知れない圧迫感は、距離を稼げば稼ぐほど、薄いTシャツ越しに俺の背中にのったりと触れてくる。まるで反比例の方程式のグラフだ。
「フザ、けんなよ……っ」
 悪態をついても、聞いている人間など一人もいない。ただ、人間以外なら、居るのかも。そんな事を考え、今度は自分に悪態をつきたくなる。なんでこんなネガティブになっちまってんだ。
 何段飛ばしで駆け下りても遅すぎる気がして、階段から飛び降りた。両手両足に加えて終いには身体まで投げ出し、衝撃を吸収させる。それでもリノリウムの床に這い蹲るのは一秒までだ。それを超えてしまうと、きっと、帰れない。
「なんで……っ……クソッタレ」
 二階の踊り場に転がったところで、これ以上階段を降りるのは危険だと脳が告げた。つけてきたヤツを撒くのは、逃げの一手じゃ到底不可能。
 それよりも根本的に。
 これじゃ撒けないどころか、一階までもたず、追いつかれる。


 なんでだろう。俺はただ、呼び出されただけだった。同級生のあいだで割と評判の女に、『今夜、会ってくれませんか』と、狙ってるんだか本気なんだかイマイチ判断つかない文面のメモを寄越された。期日は今日、指定時間はつい五分前、場所は理科塔四階の科学室。夜の校舎なんて普通に生きてればまず来ないような場所に足を運んだのは、女に呼び出されたっていうありふれた理由だ。正直なところ、胡散臭さよりも好奇心が勝った。
 後方のドアから部屋に入ってまず思ったのは、場所を間違えたのではないかという事だった。視覚で確認するまでもなく華をつく、異臭。こんなすえた匂いの充満するところに人を呼び出すのだろうかとも思ったが、逆にこの匂いが科学室である事を裏付けていて。授業中に劇薬を使用したのだろうか。何の匂いとは断言できない、でも良くない匂いという事だけは分かる。
 押してもいない蛍光灯のスイッチが入って、教室中が明るくなる。スイッチのある黒板側を見る。誰もいない。前のドアは閉まりっぱなし。
「おい、いるのかよ?」
 返事はない。
 物音ひとつしない。
 それどころか気配さえ一切ない。
 急に、背中が薄ら寒くなった。
「なあ、いるんだろ?」
 怖がらせる事が目的なら、もっと大げさに驚いてやらないと効果がないと思いつつも。
 でもそれは、自分を騙すための建前だ。
 ほんとは、部屋に入ったときから気付いてた。
「……勘弁、してくれよ」
 このフロアには、誰も居やしないって。
 
 意識が凍りつきそうになり、急いで振り返って入ってきたドアと対峙し、そこで初めて気付いた。
 赤い口紅の跡が、ドアに。いや、跡ではない。明確な意図を持って描かれた文字。
『逃げて』
 たった三文字。騙された? ではなく、逃げられないよ? でもない。逃げて。真相を暴かすためのメッセージなら、どんな言葉があっても、これよりマシなはずだった。
 背後。視えない窓際で、音が鳴った。
「……ひ、わ。わあああぁァァァッ」
 
 
 二階まで逃げ切って、踊り場から転がるようにして廊下へ出た。踊り狂う心臓を叱咤して、近くの教室に滑り込む。もう駄目だ。とてもじゃないが、あの長い廊下を突っ切るなんて事はできそうもなかった。黒板を背に蹲って、廊下とベランダの両方に気を張るので精一杯。気を張ったからって怖いのには変わりない。そうだ、怖い。そうだ、俺はいま、どうしようもなく恐怖している。ただ不意打ちだけは耐えられそうもなかったから、こうして恐怖と真っ向から対峙するしかないんだ。
「はっ、はっ……はっ」
 思ったより遅く、気配と音が一緒になってすぐそこにきた。廊下側から、聞こえるか聞こえないかくらいの微かな音とともに、その存在だけはしっかりと脈打って押し寄せてくる。……そして、カリ、とドアを削る音。音までもが実体化しやがった。全て俺の気のせいで終わりという結末はたったいま消滅したんだ。なんて考えてるうちにも、カリ、カリ、カリ、と。一定のリズムを持って爪で引っ掻いてくるヤツ。なんだよ、どうせならひと思いにドアをぶち破って入ってきてくれ。
 今度こそ、捕まった。逃げられなかった。
 そう認識して、目を力の限り瞑ったとき。
「……は?」
 気のせいではない。立て続けにもう一回。
「…………ネコ?」
 外からドアを引っ掻いて、寂しそうに鳴く声。それは紛れもなく、ネコという動物のそれだ。
 これまでの想像なんて一気に全部すっ飛ばして、俺はドアに駆け寄っていた。そろりと十センチほど開けると、雑種っぽいネコが合わせてそろりと入ってくる。俺という人間と接するのは初めてなくせに、平気面して足にまとわりついてきた。きっと人間そのものに慣れているのだろう。
「お前の仕業だったのかよ……」
 何もかも脱力して、俺はその場にへたりこんだ。科学室での物音も、追いかけてくる得体の知れない気配も。得体はたった今判明したわけだが。終わってみれば何のことはない、びびった俺の一人相撲だったって事か。
「……はぁ」
 自虐の意も込めて盛大にため息を吐いたところで、今度は人間の声がした。けっこう遠くから、手をメガホンにして呼びかけるような。しげるしげる。そう聞こえる。そう、俺の名前は繁と書いてしげるだが、まったく、なんなんだ。いきなり呼び捨てかよ。
「おーい……」
 ネコを抱き上げて喉をグルグル鳴らしてやりながら、廊下に出て声の主を探した。探すまでもなく、姿はあった。
「あっ、しげる! ……と、谷村くん?」
「は?」
 ついでに俺の苗字は谷村と書いてやむらと読む。
 一体どういうワケなんだか説明して欲しいが、彼女は俺以上に現状を把握していないようだった。
「えっと」
「……とりあえず、このネコ。あんたか?」
「あ、はい、そうです、ウチの飼い猫で、しげるっていうんです」
 ああ、なるほど。心の中で一つ頷いて、飼い主へと返す。
「俺もしげるっていうんだけど。呼び出したの、あんただよな」
「はい、そうです。お話があって」
「話ね……わざわざ呼び出してまでするような話なんだろ」
「ぇと……」
「いや、悪い。ちょっといい体験させてもらって気分が悪いだけだから。で、さっそくだけど本題」
「ぅー」
 だが、平均より飛び抜けて容姿のいい彼女は、気まずそうに声を洩らすだけだ。
「……いやさ、言いづらいことなのかもしれないけど、ここまできて言えませんってのはナシの方向で」
「はい、そうですね……じゃあ、聞いてくれますか?」
「あんた、さっきからそればっかりだな。クセなんか?」
「え?」
「いや、はい、そうです、って。いや別に、文句あるわけじゃないけどさ」
「そういう谷村くんも、クセありますよね。いや、って」
「いや、そうか? ……あ」
「あははははっ」
 自覚したと同時に笑われる。
「……で、そろそろいいだろ、話」
「えーと、怒らないで聞いてくださいね?」
「こんなとこに呼び出されたんだから、くだらない用件だったら容赦しないな」
「……たとえば?」
「ダブルクリックを教えて、とか」
 噴き出された。
「それよりは、ちゃんとした話だと思うから。大丈夫だと思うよ」
「何が大丈夫なんだっての」
 笑顔を浮かべても引きつったものになってしまうのは、情けないが先ほどまでの緊張感のせいだ。今は全然そんな事はない。あっけらかんとした彼女の空気のせいだろうけど。
 で、いつの間にか敬語からタメ口になってたりするし。同級生だから別に構わないが。
「とりあえずさ、色々あって疲れたから……飲み物買いたいんだけどいいか?」
「うん、いいよ」
「じゃ、歩きながら」
 体育館脇の自動販売機に辿り着くまで、お互いのことを色々と話した。クラスや趣味、そしてなぜか家族構成からペットに至るまで。特にしげるの紹介は熱の入りようが凄まじく、こんなところまで連れて来るのも頷ける溺愛ぶりを確認できた。
 自販機にもたれてブラックの缶コーヒーを啜りながら、知り合って30分しか経ってない彼女の姿をちらちらと見る。彼女はホットの紅茶を両手で包み、そっと口につけて上品に飲んでいた。コーヒーを飲み終えるまでに三回目が合って、そのたびに微笑まれてどぎまぎした。いまだに彼女の用件には触れられてないが、もう少しこの時間を共有していたい。
「怪談でもする?」
「なんでよりによって怪談」
「だって夜の学校って言ったらやっぱりそれかな、って」
「あいにくと、間に合ってる」
 それはもうすごく。
「それよりさ、聞きたいんだけど」
 今度は俺から。
「うん、なに」
「そのネコの名前、さ。なんか由来あるの? 死んだ爺ちゃんの名前とか」
「え――」
 とたん、さっきの表情に戻った。敬語使ってたときの、どことなく緊張した面持ち。当たっても喜べない予想なんかするからだ。自分を責めてみても、どうにもこうにも。
「いや言いにくいならいいって」
「……だから」
「え?」
「き、だから」
「はい?」
 今のところ彼女らしくない、歯切れの悪さ。俯いているからか、声の大きさ以上にこちらに届かない。
 思いっきり両手で頬を挟んで、こっち向かせた。
「ひゃぇっ」
「ほれ、はっきり喋れ……って、どした」
 彼女は真っ赤だった。触った頬も、すごく熱い。
「熱あんのか? 体調悪いなら……」
「ちが……そうじゃな、くて」
 俺の手を振り解こうともせず、逆に同じことをしてきた。両手で俺の頬をがっちりホールド。いや、見かけによらず力が強い。
 顔を固定されたうえに真っ直ぐに見据えられて、俺は彼女の目が潤んでいることにようやく気付いた。
「あなたのこと好きだから、しげるって名前つけたの」
 紅茶であたためられた彼女の手は、どうしようもなく柔らかくて。冷えきった俺の頬に明かりを落としてくれた。
「返事、聞かせて欲しい」
 一切逃げず、俺を射抜かんとばかりに視線をくれてくる。力みすぎて頬の形変わってないだろうな、なんてことを想像して、ちょっと自己嫌悪。
「そーだな」
 手首を捻って、彼女の両腕を掴む。
「大、歓、迎」
 ムードもへったくれもありゃしないけど。
 思いっきり抱きしめて、俺は一字ずつ強調して返事した。
 ただでさえ小柄な彼女は、俺の胸にぴったりと収まった。
「じゃあ、今日から俺のここが指定席ってことで」
 いったん離れてから、必殺スマイルとともに自分を指して言うと。
「うんっ、いいねそれ」
 彼女も笑って、親指をたてた。